Sunday, January 27, 2008

一度きり

最近、「演劇」 というものを意識する機会が増え、
ふと気付くとそれについて考えている、ということも徐々に増えてきた。


以前、観たいと思っていた劇を見逃してしまったことがあった。
どうしても観たかったので、その劇の録画を観ることはできないかと考えた。
劇の主催者の人にそう相談してみると、
「劇はナマモノだから、劇場で観て下さい」
という旨の返事があった。

このとき私は劇を観られないことをただ残念に思ったのだが、
今になってみると、あの言葉は以前とは違った重みを持ったものに感じられるような気がする。

やっぱり実物を観ることでしか感じられない空気や迫力があるよね。
人の動きや言葉が、実際に空気を伝わって観客に届く、というのは、
「演劇」が「演劇」であるために、
劇を作る側にとっても観る側にとっても最も大切な要素なのだろう。

私は録画でもなんでもいいから観てみたいというつもりで先の言葉を言ったのだが、
それは酷く失礼なことであったのかもしれないと思えて反省した。

その瞬間にしか生まれ得ない、もう巻き戻せない時間を演じて、伝えて、
観客の人生の中に自分たちの生きた時間を焼き付けるということなのだな、
と考えていたら、
演劇に携わる人たちってなんてすごいことをしているんだろう・・・
と感動してしまい、涙が出そうになった。

きっと生きるとはこういうことなのだろうな。
自分の時間を、誰かの時間に焼き付ける。
その逆もまた然りで、ひたすらそれを繰り返してゆくことなのだろう。

上のように考えていくと、
生きた時間を過ごすことはこの社会においてきっと容易なことではない。
今私がしている仕事は事務仕事だけれど、仕事自体に「生」を感じはしない。
「死」を感じることもないが、ただ無機質であると感じることなら多々ある。

私が今この仕事を選んでいる理由は、
未来の自分にとって必要であり、役に立つと考えられるからだ。
だからもし、未来の自分が今考えているものとは全く別の道を行くとしたら、
この仕事に就いたことの意義はほとんどなくなってしまう。
もちろんその中で築いた人間関係や培ったモラル等は獲得物として大きいが、
それはこの仕事を選んだ理由には介入しえない、別の問題である。

生きているのだね。
羨ましい。

自分で書いていて、なんだこの文は・・・?と思ったが、
これ以外に言葉が見つからない。
きっと自分の気持ちをそのまま出したらこうなったのだろう。
だからこの文のままでいいや。
誤解を招きそうな表現なのでこのままにするのは怖い部分もあるけど。
そもそも「羨ましい」って言葉が、相手方の苦労や苦悩を無視した、軽率で無神経でどこか失礼な言葉だという印象があるからなぁ。

でもそういう意味じゃない。
素敵だなぁと思って、眩しく見えるだけ。

生きた証が、別の人間の中に残っているのが羨ましいのかもしれない。
人が他人に観測されて生を実感する生き物である以上(まぁ大抵の人はそうでしょう?)、
演劇に携わる彼らはより多くの生に触れて生きられるのだろうか。
そうなのだとしたら、素敵だと思う。
そこらの人間が必死でしがみつこうとしている価値だの何だのが、
全て馬鹿馬鹿しく思えるね。彼らこそ道化だ。
悲しいほどに滑稽な。

私もその一部なのかと思うと落胆する。
だけど、今を乗り越えることで未来の光に手が届くと信じるしかない。


時間は不可逆的なもので、一度過ぎてしまえばもう巻き戻すことはできない。
二次元に落とし込まれた録画なんかじゃ「生」は伝わらない。

その公演は、一度きり。
そのときにしか生まれない何かがある。
いや、全てがそのときにしか生まれないものなのだろうな。
だから演劇は会場で観せて、観られてこそ、初めて本来の姿になるんだね。

そう考えると、同じ劇でも全ての公演を観に行きたくなってしまう。


あー本当はもっとダラダラ書きたい。
好きなバンドのメンバーが言ってた、
「ライブを観てくれ。それも観ずに俺らのことを評価・判断しないでくれ。
CDとかじゃなく、ライブ会場で唄を聴いてほしい」
っていう言葉の意味が改めてわかった気がするとか、
前に劇団四季の公演を観にいってこんなこと思ったとかなんだとか・・・


・・・眠い。
もう眠くてダメだ。
何を書いているのかわからなくなってきた。

伝えたい気持ちやら思いやらは確かに今も、
極限まで眠くなっている今も私の中にあるのですが、
なんせ頭が言う事をきかないのでもう寝よう。

あー観たいドラマがあったんだ。
録画したやつ。 とか言っていいのかな・・・
今まで上に書いてきたことを否定することに・・・
でもドラマは二次元で観客に届けることが目的だからいいのか。

・・・なんてことを考えながら寝ます。
おやすみ。

Saturday, January 26, 2008

シナモンドーナッツ

昨日はほぼ定時で仕事をあがり、
先輩とお茶をして帰ってきた。

先輩が以前から気になっていたドーナッツ屋さんがあると言うので、
そこに行ってみることにした。

ショーウィンドウにはカラフルなドーナッツが並んでいて、どれもおいしいそう。
昔ならその毒々しい色にびっくりしていたのだろうけど、
最近はもう驚かないよね。どこでもよく見られる光景。

私はシナモンシュガー ドーナッツと紅茶を注文した。
数多くあるメニューにかなり迷いはしたが、
最終的に注文するのはこれだな、と、最初から心の中で決めていた気がする。
先輩は白ゴマドーナッツを注文していた。

ちょっと高さのあるカウンターチェアのテーブル席に陣取って、
まじまじとドーナッツを眺めてみた。
このドーナッツは完璧かもしれない。
形も色も理想に近い。
こうなってくると、いざ食べるのに勇気がいる。
せっかく完璧を見つけたのに、味によってそれが壊されてしまうかもしれない。

しばらく食べずに眺めていたが、目の前では先輩が白ゴマドーナッツをぱくぱくと 頬張り、 おいしー!と言っている。
このまま食べないのも不自然だし、
味への不安よりも期待や興味の方が勝ってきたので、
勇気を出して食べてみることにした。

食べてみて正解、味もほぼ完璧。
寒天が練りこまれているのでしっとり・・・というのがこのドーナッツの売りだったのだが、 そのお陰なのか、しっとりしていて弾力もあってバッチリだった。
シナモンも効いていて、砂糖のジャリジャリとした食感も期待どおり。
チュロスなんかは大抵の人が食べたことあるだろうから、特に珍しくはない味だと
思う。 なんだか安心する味だった。
これでもう少し油っこくなければ、文句なしのパーフェクトドーナッツだ。


私がここまでシナモンドーナッツにこだわるようになったのは、
村上春樹のせいだ。
この人の物語にはときどきドーナッツが登場するのだが、
そのドーナッツがいつもいつもおいしそうなのだ。
村上春樹を読むと、そのお話にドーナッツが登場しようとしまいと
必ずドーナッツが食べたくなる。
いつからこんなふうになったのかは憶えていないが、
こういう癖がついてからずいぶんと長く経つ。

小学生の頃から愛読している 『ひつじ男のクリスマス』 という村上春樹の小説に、
シナモンドーナッツをこよなく愛するひとりの博士が出てくる。
彼の食べているシナモンドーナッツは、世界で一番おいしいに決まっている。
私も一度食べてみたいとずっと思っていた。

他にもねじりドーナッツが重要なアイテムとして登場するのだが、
登場人物たちがこれをむしゃむしゃと食べるたびに、
私の手元にねじりドーナッツがないことを恨んでしまう。
村上春樹を読もうと思ったら、ねじりドーナッツをまず用意することにしている。
そうでなくても、ねじりドーナッツを見ると買ってしまうことが格段に増えた。
ねじりドーナッツが手に入らなければ他の物で妥協することもあるのだが、
それにしてもミスタードーナツにはどうしてねじりドーナッツがないのだろう。
とても憎々しい。

こんな理由で、シナモンドーナッツとねじりドーナッツは
自分にとって特別な食べ物 なのである。
昨日はイメージ通りのシナモンドーナッツに出会えてだいぶ感動した。

ここに書いた話を、つい先輩にその場で熱く語ってしまった。
先輩はにこにこしながら私の話を聞いてくれた。
やさしいお姉さんができたようでうれしかった。

紙袋に無造作に入れられたドーナッツっていいよなぁ。
飾らない感じがとてもいい。
ドーナッツは箱に入っているより、紙袋に入っている方が好きだな。
そのカジュアルさが私の性分に合っている。

口の周りに砂糖をつけながらドーナッツをほおばる恋人を想像してみたら、
あまりに可愛くて微笑ましかった。
勝手な妄想ではあるが、やっぱりドーナッツは気持ちが和むし楽しいなぁ。

シナモンドーナッツとねじりドーナッツを持ってどこかに出掛けたいな。
青空の下でむしゃむしゃ食べたい。

Monday, January 21, 2008

ダイブ 

子供の頃 私はよく転ぶ子で、
ちょっと走る度に「転ぶわよ!」「気をつけなさいよ!」という声が飛んできたものだった。

でも大人になると、人は誰でも転ばなくなるのだろうと思っていた。
特に根拠はない。

でもそんな甘い考えを覆すことになった。
今日、見事にすっ転んだ。

スリッパを脱ごうとした瞬間に、左足のズボンの裾に右足がひっかかった。
一瞬中に浮いて、床に叩きつけられた。
鈍い、大きな音がした。

ひざをすりむいて、今は少し腫れて赤くなっている。

あまりに「転ぶ」という行為そのものだったので、
面白いと思うと同時に感動した。
こんなにもはっきり転ぶことが、この歳になってもあるんだなぁ、と。

ところで、転ぶってすっごく痛いよね。
なんだこの頭悪そうな発言。と思うだろうけど、本当に痛いよ。
試してみるといいよ。その痛みを思い出せない人は。

高校時代、雨の日にタイル張りのようになった地面を歩いていて、
ついうっかりスキップしてしまったときのことを思い出した。
あるでしょ、雨が降るとやたら滑る駅の出口とか、そんな感じの場所。
そういえばあのときもかなりアクロバティックに転んで、
ひざを痛めてしばらくつらかったな。
目撃者がいなかったことが救いだった。
自分ひとりでだいぶ笑った。
今でも思い出すと笑ってしまうので困る。
バスとかエレベーターの中にいるときに限って蘇ってくるからイジワルだ。


大人になっても転ぶ人は転ぶのか。
よくわかった。気をつけよう。

しっかし見事な地球へのダイブだった。

Sunday, January 20, 2008

寒い

明日、仕事行きたくないな。
面倒っていうのは多少あるんだろうけど、
それより大きな要因になっているものは、寒さ。

オフィスにいても寒い。
前は1,2時間仕事をしていればいつのまにか寒さを忘れられたし、
夕方には人口が増えるせいか暑く感じることが多かった。

それが先週は、夕方になっても毎日寒さを感じるほどだった。
もうそれだけでけっこう憂鬱。
生理的なつらさって精神的ダメージ大きいよなぁ・・・。
足元にヒーターが欲しい。
絶対に経費で買ってもらえるはずないけど、買ってくれないかな・・・。
その方が仕事の効率上がるよ。
だって集中できるもん。

去年、一昨年あたりから気付きだしたんだけど、
自分は寒さに弱いというか、けっこう寒さが苦手なのかもしれない。
イライラすることもあるくらいだから、かなり苦手なのかもしれない。

物理的に寒いと、気持ちも寂しくなってくるよね。
あったかいってすごく大事だ。
それだけでホッとするもんなー。

あーお腹が痛くてつらいんですが、誰かなんとかして下さい。
明日仕事行きたくないなー。
でも別に休んで寝ていたいわけでもないんだよなぁ。

ぬくぬくとしたオフィスで仕事ができればそれでいい。
何時間も寒さを感じながら仕事をするのが嫌なだけ。

それだけなんです。

Thursday, January 17, 2008

わーい!@会社

もうひとつ、うれしかったこと。

会社の人が、一緒に出掛けようと誘ってくれた。

「お酒は飲める?」
と声を掛けられたので、たぶん飲みの誘いだったんだと思う。
でもそのときはまさか誘ってくれると思っていなかったので、
「それが弱いんですよ~」と正直に答えてしまった。

「そっか~。じゃ、甘い物は好き?」
と聞かれたので、
「大好きです!」と即答した。

「じゃ、甘い物デートしよっか」
と言われ、初めて誘ってくれているとわかった(ちなみに、相手は同性の先輩)。

やった!

なんだか、今の会社にも少しずつ自分の居場所が出来てきたのだと感じられて
うれしい。
入ってまだ2ヶ月半だけど、こんな日が来るなんて少しも想像できないくらい
つらかったからなぁ。
よかった。

話はちょっと変わるけど、
内線電話をかけたときなんかに、相手の人がよそ行きの声で出る。
「はい、○○課△△です」。
ここで私が「○△課~~です」と名乗ったときに、相手の声や話し方がよそ行きから身内用に変わる。
「あぁ、はいはい」とか、「うんうん」とかね。
最近はそんな些細なことがうれしい。

甘い物デートの先輩には、おうちにもお招き頂いた。
是非是非 お邪魔したいです。
何をお土産に持っていけばいいかな。
そんなことを考えるのも楽しい。

計画が流れないうちに実現させたいな。

ハッピーチケット

気付いてみたらなんだか重苦しいことばかり書いていたけど、
ハッピーなこともあったから書いておこ。

そのいい事が起こる前に、ある悲しい出来事があった。
あるバンドのライブのチケットを取ったのだが、状況が変わって行けなくなってしまったのだ。
2ヶ月前から楽しみにしていたのでかなり落ち込んだ。

しかし落ち込んでいる暇がないくらいライブの日が迫っていたので、
落ち込む感情をとりあえず無視して買い手を探すことに。
あとでゆっくり落ち込もう。

買い手は高校1年生の女の子に決定。
私がチケットを買った値段は定価の4.5倍だったのだが、
同じバンドを好きな仲間だし、
その子が高校生ということもあり、定価で譲ることに。
なんとかチケットの受け渡しも間に合い、ライブ当日は穏やかに過ぎていった。

昨日家に帰ってくると、私宛の包みが届いていた。
差出人はその女の子。

包みを開けると、ライブのグッズと手紙が入っていた。

グッズももちろんうれしかったんだけど、
その手紙があまりにあったかくて、胸を打たれて、
東京の真ん中でもこんなにあったかい幸せを感じられるんだぞー!!
と、世の中に叫びたくなった。
東京が冷たいなんてただの偏見だ、なんてことを本気で思ったくらい。
心の底から幸せだと思った。
まさかこんな手紙をもらう機会が自分にあるとは。
いい人生だと言える気がしたなぁ。

女の子にチケットを売ることが決定した後、
別の人からもチケットを売って欲しいという旨のメールが届いていた。
10万円でも、とにかく言い値で買うということだった。

実際大幅な赤字になったけど、
その人に売っていたら大幅な黒字にできただろうけど、
後悔は全くなかったな。

10万円で売っていたらどんな気分になっていたんだろう。
おそらくは好きなバンドを冒涜した気持ちが湧くだろう、
というところまでしか想像できない。
まぁ元を取れたら取れたで、いくらかポジティブな気持ちにもなるだろうけどね。

あなたの手紙を読んで幸せな気持ちになりました、ありがとう、
という旨の返信をした。
すると、私もあなたのメールを読んで幸せな気持ちです、
という旨のメールが返ってきた。
お互いに幸せ。
いいことだ。

待望のライブにいけなかったというネガティブな出来事を、
それを上回る幸福感で満たしてくれたこの女の子にとても感謝している。

どうもありがとう。
ほんと、ありがとうじゃ足りないね。
いつかライブで会えたらいいな。

Tuesday, January 15, 2008

ごめんなさい

ああ・・・もう嫌。自分が。

どうして私ってこうなんだろう。
早とちりして、勘違いして、すぐに決め付けてしまう。

この連休、精神状態はどん底だった。

金曜の夜、愛着をもって大切に思っていた携帯が突然故障。
水に落としも衝撃を与えもしていないのに。
急に電源が切れたと思ったら、それ以降ずっと起動画面がエンドレスで続く状態。
そんな姿の携帯を見ていて、ただひたすら悲しくて泣いた。

土曜日は雨の中、ドコモショップへ。
寒かった。
携帯を見てもらう間ハラハラしながら待っていたが、
「もう治らないと思います・・・データを抽出できる可能性もほぼ無いに等しいですね・・・」
と言われ、絶望的な気分になった。

携帯は私にとって分身とも言えるくらいプライベートな部分を反映しているもので、
単なる道具として見なすことなんてできないくらい。
ここ最近で一番落ち込んだ出来事だった。
ショックで倒れそうになるし、吐き気もするし。
ひどかったな・・・。

大切なデータがたくさん詰まっているし、
携帯それ自体との思い出や歴史もある。
家に帰ってからは脱力してしまって全く動けなかった。

携帯依存症という言葉が頭に浮かぶ。
あれは確か、
「誰かと繋がっていないと不安で、正常な精神状態を保てなくなる状態」
だったと思うんだけど、私の場合はそれとはちょっと違った携帯依存症かもしれない。
携帯それ自体、その存在に依存しているというか。
大切な理解者、様々なものの共有者が、
突然目の前で痙攣しだして、そのまま目を覚ますことなく死んでしまったかのようだった。
もうこの画面が光を湛えることはないのかと思うと、涙が止まらなかった。
私はおかしいのだろうか。

日曜、月曜もそんな思い気持ちを引きずり、
何に対しても反感をもってしまうようなピリピリ状態。
こんな歳になっても自分をコントロールできないのだと思うと情けないのだけれど、
ダメージがあまりに大きいと自分だけが悲劇のヒロインであるかのように感じ始めるのかな。
抱えた苦しみや悲しみが大きければ、
何をしても赦されて然るべきだと都合よく考え始めてしまうのか。
それは無意識なのかな。
どちらにしろ、克服しなければならない。

「可愛そうな私」は周りを傷付け、不愉快なウィルスを撒き散らすだけの醜悪な存在であったのだった。

懺悔なんて、ことごとく卑怯な罪逃れであると思う。
謝罪なんてしてもしきれないよ。
私が自分の言動を振り返って反省したり落ち込んだりしてみても、
私によって被害をもたらされた人たちの気持ちには何の変化もないのだろう。
だけど、これが自己満足だとわかっていても、
何かを楽しむ気分にはどうしてもなれない。
しばらく反省してここから何かを得なければ。

本当に、申し訳ないことをしたと思っています。
ごめんなさい。

Monday, January 14, 2008

もしものときの話

もしも私が突然死んだら、
その知らせは大切な人へと届くのだろうか。

そして、その逆は?

どこでどう死ぬかにも寄るけど、
まず真っ先に家族には知らせが行く。
長年付き合ってきた友人にも、家族経由で必ず連絡が行く。

では、恋人や恩師には?
どれくらいの月日が経ってから、彼らに知らせが行くのだろう。
そもそも知らせが行くことがあるのかな。

実は死んでいました、なんて洒落にならない。

だけど人は何らかの形で死ぬものだから。

こんなことを心配していると、「暗い」だの「ネガティブ」だの言われそうだけど、
でも私は不思議に感じるんだよね。
どうして皆そんなに何も考えずにいられるの?って。

あの人が死んでも、私のもとに連絡が来ることはないのだろうな・・・。

一番大切な人に、一番大切な連絡は行かないんだよね。

絶望的な気分になるな。
死を重んじたいなんて、残された側の勝手な自己満足ではあるにしろ、
大切な人の死を知ることすらできないのだと考えると、
何のために何を思って生きているのかわからなくなる。
自分の幸せの追求とか、そんなことをいくらしてみても、
そして実現できたとしても、
全てぶち壊すくらいの衝撃的事実だよなぁ。

全て馬鹿馬鹿しくなる。

明日は仕事だ。

付き合うということ

恋人って、どういう存在を言うんだろう。
もちろん「彼氏・彼女として付き合いましょう」という契約を結んでいる状態を言うんだろうけど、
そういう表面的なことではなくて、もっと精神的、感覚的に。

彼氏・彼女として付き合うというのはどういうことなんだろう。
何が目的で付き合って、
お互い相手に対して何を望んで、
付き合うことで二人の関係はそれまでの関係とどう変化するのか。

こういうことを考えたときに行き着く答えが、

・恋人とはお互いに、相手が自分にとって最も都合のよい存在であることを望んでいる
・目的の主たるものはセックス、時間や感情の共有
・付き合うことで相手を把握、拘束する権利が与えられる(と錯覚する)

といったもの。
本当は「付き合う」ことの目的って、
第三者に対して自分たちの関係をわかりやすく示すことだと思っていて、
それ以外の意味を見出そうとしても難しい気がしてる。
付き合ったからって何らかの権利が発生する訳ではないだろうし、
当然義務も発生するはずない。

周りに示すため。
「私たち気持ちが通じ合ってるふたりなんです、邪魔しないでね」ってね。

だからお互いの感覚においては特に変化が起こらなくてもいいはずなんだけど、
そうもいかないんだよね。
不思議だけど、付き合い始めたとたん、
相手の「存在」よりも「不在」に意識が向くようになる。

付き合う前までは、相手と関われる機会があると
「やった!今日は話ができた!」 「おっ!メールがきた!」
と喜べたものが、付き合い始めると、
「どうしてメールをくれないの」 「どうして私を一番に優先して考えてくれないの」
「どうして俺の言う通りにしてくれないんだ」 「どうして他の奴と楽しそうにするんだ」

自分の権利を追求するばかり。
相手は昔も今も自由に自分の権利を行使できるはずで、
今も実際にそうしているだけなのに。

付き合ったとたん、意識が変化してしまうのはどうしてなんだろう。
何もかも、こうであって当たり前、こうしてもらって当然、
という意識が目覚めてしまうのはどうしてんだろう。

こんな感情がなくなれば、多くのカップルが円満な関係をもっと長く保てるのだろう。

でも、相手に対して全く執着しないでいられる関係なら、
わざわざ付き合う必要もない気がするんだよね。

付き合うことの意味には、多少は拘束やら執着やらの要素が含まれるんだろうな。
確かに、自分に恋人ががいたら他の異性とはデートすることには罪悪感を抱くし、
自分自身が拘束されることを多少は望んでいたり、拘束されて然るべきと思っているんだろう。
相手にも同じことを思って欲しいということではなくてね。

私の存在意義って何なんだろうな。
そんなことを考え始めるとどこまでも卑屈になれるし、
突然何もかもどうでもよくなったりする。
急にプラス思考に転換したりもする。

この繰り返しって、疲れる・・・。

私はどんな存在であることを望まれているんだろうか?
相手の望む自分ばかりを表現しようと思うのではなく、
ただ疑問に思った。

私は、何なんだろう。
どういう存在なんだろう。