Saturday, November 25, 2006

なんちゃって早起き

今日はだいぶ早起きです。


というのは嘘で、寝てません。
そのうち寝ます。

土曜日がやってきた!

Friday, November 24, 2006

許可を。

目を逸らしても、完全に逃げることなんでできない。
本当は自分の感じていることに気付いてしまっているからだ。

本当は、気付いているんだ。
認めたくないだけで。

誤魔化しているうちは何も解決しない。
どんなに考えても、あがいても。

怖くても、見つめてみなよ。

Thursday, November 23, 2006

表示されない・・・

ここのところ、UPした記事が表示されないことが続いて心配になっていたけど、今日開いて確認してみたらちゃんと反映されていた。

「ブログが表示されません、助けてください」
っていう旨のメールをbloggerサポートに送ったから、なんとかしてくれたのかもしれない。
ありがとうございます。

ブログを書いて、「ページが表示されました」と言われて見てみると白紙・・・っていうことが5件くらい続いてたから。数日経ってから見ても同じだったし。何かまずいことしたっけ??なんて考えちゃいました。でも直してもらえてよかった。まだ同じ状況の記事が2件ほどあるけど・・・いつか表示されるようになるだろうか。


今日は久々に落ち込んだ。
かなりつらい1日だった。
自分のせいなのだけれど。

さて、今日は早めに寝ます。

Tuesday, November 21, 2006

本屋の店員さん

今日本屋に行ったら、レジにいた店員のお姉さんがなんとなく可愛かった。

顔が特別可愛いというわけではなかったけれど、目が丸くてきょとんとしていた。
パッと見、ちょっと大人しそうで、あまりペラペラ喋ったりはしなさそうな雰囲気だった。
でも実際に喋るとその本屋の店員さんには珍しくハキハキと喋る人で、他のお客さんと話しているのを聞いただけでもなんとなく好感が持てた。

探している本が見つからなかったので、そのお姉さんに声を掛けてみた。
「すみません、○○は・・・」
「あぁ、あれは発売が来月になっちゃったんですよー」
「あ、その前の巻はありますか?」
「あ!それは確か・・・」
でね、本棚までパタパタと走っていくんです。静かな本屋の中を。
しっかりしていそうなのに少しどこか抜けているような感じで、そこが可愛いと思った。
走り方にもどこか愛嬌があって。
おっちょこちょいで、何もないところで転びそう(なイメージ)。

お気に入りの店員さんがいると、また行きたいなーと思いますよね。

ふー

なんかだいぶ無理をしていたみたいで、いつの間にかいろいろ溜まっていたみたいだ。

どうして今までこんなことに気づかなかったんだろうってことに気づくと、
途端にすっきりするよね。
力が抜けて楽になったり、やる気が戻ってきたり。
一段落ついてすっきりした気分になる。
実際にそうならいいんだけどね。

自分で自分を見つめることは大切だけど、
あまりに凝視しようとすると見えなくなるものもあるってことなんでしょうね、きっと。

なんにも考えなくていいのかもしれません、
あれこれ難しく。
難しいと思っていることほど、そんなもののような気がします。

・・・っていうか、寝なさい。自分。

捨てられない性

人間がとても憎くて、
自分もそんな憎むべき人間のうちのひとりなのだということがとても悲しくて、 抜け出せない絶望感の中にいた。

それは今も変わらないし、悲しみだって少しも和らがない。

しかし人間を好きになってしまうのも事実だ。
それはとても悲しいことではあるけれど、変えられないらしい。
少なくとも今までのところ無理だった。

こんなにもこの醜悪な動物が嫌いで嫌いでたまらないのに、
惹かれたりしてしまう。
「人間味」に良さを感じてしまう。

Monday, November 20, 2006

ブログパーツ

面白いと思ったブログパーツを貼り付けて、定期的に変化させていくのもいいかなーなんて思ったので早速。

Sony Ericssonはさすがにお洒落ですね。
ブログが自分の部屋のようなものだとしたら、
インテリアとして置いておきたくなるようなパーツ。
ということで貼付。

日産のcubeのシールとも迷ったけど、今回はコレに決定。
cubeのシールは今 流行のフロッグマンさん作?でしょうか。
違うのかもしれないけど、そんな雰囲気です。

Wednesday, November 15, 2006

嫌悪感

例えばテレビを見ているときなど、私はよく腹が立つことがある。
しかし最近、何に対して腹を立てているのか わからなくなってきた。

腹を立てるときは決まって何かに嫌悪感を感じているのだが、
何を嫌悪しているのかもよくわからないというか。

少し前までは、腹を立てている対象が明確だった。
例えば、テレビを見ると芸能人が馬鹿騒ぎしてたりする。
CMにしても、意味がわからなかったり、そもそも意味が無さそうだったり。
そういうものを見ていると無性に腹が立つ。
実際、腹立たしいものを見せられていることも多いと思う。

でも最近思うのは、
私が腹を立てている対象は馬鹿げた人間だったりその創作物であるというよりも、
何かを蔑んでいる自分自身なのかもしれないということ。

誰かや何かを侮蔑する自分に対して、嫌悪感を催している気がする。
苛立ちの根源はきっとそこにある。

何かを馬鹿にしている自分が嫌だ。
私の抱いている嫌悪感の正体は、自分への憎悪であるように思えてならない。

Monday, November 13, 2006

瓶の中の無限宇宙

瓶の口いっぱいまで砂をつめて、瓶の底をトントンと打ち付けると、瓶の口の部分に少し空間ができる。
そこに更に砂をつめ、またトントンと打ち付ける。空間ができる。
ひたすらこの繰り返しを、小さい頃 砂場でやった経験は誰にでもあると思う。

何度やっても、瓶には空間の余裕ができ、またそこに砂をつめなければならない。
その作業が永遠に続くように思えて、なんだかとても怖くなった覚えがある。

砂粒が固体であり、形もいびつである以上、瓶に軽い刺激を与えることで中の砂が動き、砂粒同士間の隙間が狭くつまっていき、瓶の口部には埋まった隙間分の空間ができる。
瓶には容量に限界があるのだから、この作業を繰り返せばいつか新たに砂をつめることはできなくなる。

そんなことはわかっていたのだが、目の前にある砂の詰まった瓶を見ていると、その作業に終わりがないようで不安になったのだ。まるで瓶の中には別の世界があって、空間が無限に広がっているような。

少なくとも私はその作業の中で瓶の上部の隙間はなくならず、瓶の容量の限界をこの目で確かめることができなかった。
だから、自分の中で未だにすっきりしないのだろう。
緑色の瓶だったが、あれを思い出すと、抜け出せない不安に吸い込まれていくような気分になる。
底が見えないことは怖い。

砂の瓶詰め作業中は、

 瓶に入る砂の量には限界があるに決まっている・・・
 でも何度やってもまだ入る・・・
 このまま永遠に砂を入れ続けられたら?
 この瓶の中には別の世界が広がっていたら?
 ・・・いや、そんなわけない。馬鹿馬鹿しい。
 でもまだ入る・・・・・・

こんな考えの繰り返し。
もちろん瓶の中に四次元空間があるなんて本気で思っていたわけじゃない。
でも、もしも・・・なんていう考えが浮かぶこと、きっと誰にでもあるだろう。

底なし沼とか、蟻地獄とか、そういうものも怖かった。
小さい頃って、生活に潜む危険や恐怖を敏感に感じ取っていたんだと思う。
そのとき感じていた危険ってけっこう真に迫っていて、
今になって妙に納得することもある。
小さい子って、無意識のうちに物事の本質を見ているのかもしれない。

Sunday, November 12, 2006

意識する姿勢を持て

私は、礼儀を弁えた人間が好きだ。
そして認め、受け入れる。

認めている人間からは、何をされても大抵のことは許せる。
例えば夜中や朝方に電話で起こされようと、
私の時間や労力を多分に割かされるような要求を突然されようと。
私のできる限り力を貸したいと思う。

私よりも思考能力のレベルが上、或いは同じ程度であれば尚更だ。
そのような人は、私にとってとても重要であり、大切である。
その人たちからのコンタクトに多少不躾な点があっても、相手が礼儀を弁えている人間であるということがわかっている限り、私は受け入れる。

それは信頼関係があるからだ。
私は彼らを信頼している。
お互いがお互いを尊重し、認め合っていることを信じられるだけの経験や歴史の上に、信頼関係は成り立っている。不躾な要求をお互いに受け入れられるのも、普段から相手が礼儀と自分たちの関係を弁えているからこそである。適切な距離が取れているのである。

ただ、私と彼らの関係を見て、私が寛大であると勘違いする人間もいる。
そのような勘違い人間が、私は嫌いでたまらない。

信頼している彼らをA側と呼び、勘違い人間をB側と呼ぶことにする。

A側の人が私に対して、傍から見たら不躾とも思えるような要求をしてきたとする。
それを見ていたB側の人間は、「この人は、ある程度のことを要求しても受け入れてくれる」と思い込むらしい。
特に親しくもないのに、不躾な連絡が向こうから一方的に送られてくるのだ。
更に言えば、連絡をしてくること自体が不躾であり、私との関係を見極めることができていない証拠である。
なぜなら、私はB側の人間に自分の連絡先を教えたりはしないからだ。
B側人間は、どこからか私の連絡先を入手し、勝手にコンタクトを取ってくる。

B側人間は独特の、わかりやすい臭いのようなものを発している。
臭いといっても実際に嗅覚を刺激する臭いではなく、こちらに嫌悪感を抱かせる雰囲気、かすかなオーラのようなものだ。
私には、そう感じる。

B側は、自分の立場を私より上に置きたがる。
或いは、自分の思考レベルが私より勝っていると自信をもっているようだ。
そして彼らは馴れ馴れしい。親しみやすいこととは違う。
基本的に自分中心で話を進める、或いは要求を押し付けてくるばかりである。
こちらから彼らに要求することなどないので 向こうからの要求を押し付けられるばかりになるのも当然のことだが、彼らの無礼っぷりは要求の内容だけではない。
コンタクトの取り方や要求の仕方もまた、なのである。

関係を見極めろ。そして立場を弁えろ。

これは私自身、自分の肝に銘じていることでもある。
自分がこれを完璧にできているとは言わないし、思ってもいない。
ここで言いたいのは、「それを意識する姿勢を持て」ということだ。
これができない人間、こんなこともわからないような人間とは付き合う気はない。

誰かの前でこれができていないとすれば、私自身もそう思われているだろう。
どこかでB側人間だと思われていなければいいのだが・・・。

自分を観察することだ。

Friday, November 10, 2006

誰、この人

欲しいものがあって、それがちょうどヤフオクに出ていたので落札しました。

どうしても欲しいけど、どこのお店でも売切れていたり、廃盤になってしまったりして
もう店頭では手に入らないようなものがヤフオクには出ていたりするから、使い方を間違えなければ便利なシステムだと思う。

でも買い物って、自分でお店まで行って実物を手にとって、レジでお金を払って、他人のものから自分のものになる瞬間が一番楽しくて嬉しい瞬間なんだと思う。
そして家に帰ってきて、包みを開けて、改めてその物を眺める瞬間。

ネット上での買い物だと、それが味わえない。
商品が自分のものになる瞬間が曖昧だし、画面をクリックしていくだけで済んでしまう買い物はなんだか味気ない。物への思い入れだって薄くなるかもしれない。
お買い物も、単に商品が手 に入るだけでは物足りないんですよね。
女性は買い物でストレスを発散すると言いますけど、あれだって「物を手に入れた!」っていう感覚を味わうことが一つの大きな目的なわけでしょ。 実際にお店に行って自分の手でお金を払うことで 自分が新たに物を手に入れたという感覚が生まれて、その感覚を味わうことでストレスを発散させているんだろうし。

お金を使う感覚を味わうためにお金を使う。
それってとても重要なことだと思う。


それで話を元に戻すと、商品が今日届いたんですけど、それについていた伝票を見ていたらなんだか不思議な気持ちになったんです。
送り主の欄には、全く知らない人間の名前が書かれている。
札幌やら京都やら、知り合いのいない場所から荷物が届く。
それって、なんか不思議だな・・・と。
知らない人から自分宛に荷物が届くことが不思議というか、もはや不可解なんです。
(自分で取り引きしておきながら。)

知らない者同士の取り引きにはそれなりにリスクも付き物だから、ネットオークションをやたら利用しようとは思わない。買い物の醍醐味を味わえないこともあり・・・。

ただ、便利な世の中になったなー。

便利がひとつ増えれば危険もひとつ増えるわけだから、
便利であるということはそれだけ危険が多い世の中なんだよなぁ。

自由と義務が表裏一体であるように、
便利さとリスクもまた表裏一体であることを忘れてはなりませんね。

手作りご飯

やっぱり、手作りのご飯っていいなぁと思う。

マックとかコンビニ弁当が食べたくなるときも もちろんあるんだけど、
ご飯っていうのとは違う気がする。
今ここでいう「ご飯」とは別物っていうか。

マックのハンバーガーを食べたくてそれを買って食べているときは、おいしいと思って食べているし、それはそれで満足していると思う。

でも、ふと寂しくなったり虚しくなったりする。
特に食べ終わってゴミやら何やら片付けるとき。

そう、出来合いのものを買っただけの食事と手作り料理の食事って、食べ終わったときの気分がすごく違う。

手料理って、食べ終わって 「ふーっ」って落ち着いたときに安心感みたいなものがある。
それに対してジャンクフードとか買ったお弁当とかって、食べ終わったときに
「はぁ・・・」って溜息が出ることがある。

自分で作った料理でも、作ってもらった料理でも、
やっぱり手作りって特別だよね。

なんてことを、朝ごはんを食べていて思ったのでした。

Wednesday, November 8, 2006

エスケープ

知り合いの子に、小学5年生の女の子がいる。
今日はその子に会う日だった。

その女の子をAちゃんと呼ぶことにする。

Aちゃんはおしゃべりが好きで、中でも身近な人や動物をネタに話を作り上げることがとても好きだ。
よくあると思う。
「○○ちゃんが、~~~ってなこと言っちゃったして」
「そうそう、それで△△ちゃんが、~~~になっちゃったりしてね(笑)」というような、冗談話。
それは別になんの変哲もない日常会話の一部なんだけど。

ただAちゃんの話はエスカレートして、こんな話も出てくるようになった。

「○○ちゃんが死んでお葬式になったら、そのお葬式のときにみんな手を叩いて喜んでるんだよ(笑)
それで、そのあとはみんな喜びのダンスを踊っちゃうの」

「○○ちゃんのお葬式のときには、誰も泣いてないの(笑)みんな笑って喜んでるんだよ!」

「△△さん死ねーってみんなで叫ぶの。
で、△△さんが死んだら、いいぞーってみんなで喜ぶんだよ(笑)」

「□□が死にました、っていう知らせが来たら、Aは 『それはよかったですねー、うん、いいことだ』って言って拍手しちゃうの(笑)」

他にもこんなことがあった。
☆☆さんが手を切って、血が出ちゃったーと言ったとき。
Aちゃんは拍手をしながら、「わーい、やったーやったー」と言った。

Aちゃんは、ふざけて言っているだけである。
笑い話のつもりで言っている。
○○ちゃんや△△さんに何かされて恨んでいるわけでもないようだし、嫌っているわけでもないようだ。
ただ、冗談として言い、自分の話に自分で笑っている。
周りも笑うと思っている。
自分は面白い話をしているつもりなのだ。

Aちゃんが完全に冗談で言っているとしても、
彼女の発言はあまりに分別がない。
もしわざと(相手を傷つけようとして)言っているなら、
ちょっと性格が悪い。

以前は単に分別がないだけだと思っていた。
しかし今日、ふと その子の性格の悪さを疑ったのである。

きっと分別がなく、性格も悪い、その両方であると思う。
そして、そういう性質を持つ人間は、往々にして精神的に弱い人間だ。

そんなことを考えていたら、自分の幼少時代を思い出した。

知り合いの人が家に来ているときなどに、人前で母が怒らない(怒れない)のをいいことに、調子に乗って悪さをする子どもだった。そして母とふたりになったときに、毎回叱られていた。
他人と私と母の3人の輪から他人が抜けていったとき、
私は「やばい、またやっちゃった・・・怒られる!」と、内心びくびくしている。
どうして直せないんだろうと、自分の行動を何度も疑問に思ったものだった。

今日は、ふとその疑問が蘇って、改めて考えてみた。

調子に乗って悪さをしている最中、それが悪いことであると自分でもわかっている。
後で怒られることもわかっている。
それなのに、悪さはエスカレートしてしまう。
止めることができない。
それはどうしてだったのだろうか。

今になって考えてみると、こういうことだったのだと思う。
自己顕示欲の充足と、それに伴う罪悪感や惨めさの回避に必死になっていた結果なのだろう。

お客さんに、自分を見てほしい。
その願望を満たすために、注意を引くような何かをする。
それをして、自分が悪いことはわかっている。
ということは、どこかに罪悪感があるということだ。
しかし自分の非を認めれば、惨めな気持ちを味わうことになる。
だが惨めな気持ちは味わいたくない。

罪悪感や惨めな気持ちをどこかで感じていて、
それを振り払うために一生懸命次々に悪さをしていたように思える。
そしてさらに罪悪感が生まれて・・・っていう悪循環だよね。

だから、自分が悪いとわかっていても止められなかったのだと思う。
自分が悪いと自覚していたからこそ、止められなかったんだよね、きっと。

先に話したAちゃんの発言も、きっとこういうことではないのだろうか。

Aちゃんは一人っ子で、見ている限り甘やかされて育っている。
だからとても我儘で、感謝の気持ちをあまり知らないようだ。
Aちゃんには、何でも誤魔化そうとするところがある。
そして人に謝ることができない。

怒られるとひどく落ち込んで、少し経つと意識が飛んでいる。
思考が停止して、何も考えていない状態になる。
そして眠くなり、うつらうつらとし始める。

自己防衛能力が高いのだろうけど、
その能力があまりに高すぎると、成長のチャンスを失いがちだ。
自分の非を受け止めることが何より苦痛で、必死になって逃げようとするからだ。
自分を見つめることができないし、自分の欠点を直すことができない。

最近、そんなAちゃんに嫌気がさしている。
私自身、過去の自分に重なる部分をAちゃんの中に見てしまうからなのだろうか。
それとも、自分を含めてそういう人間がただ嫌いなだけなのだろうか。

今の私は何かから逃げていないだろうか。

罪悪感を常に感じている。
それが答えだ。

Sunday, November 5, 2006

シュート練

うちの外に、バスケットゴールがついた。
家庭用だからそんなにしっかりしたものではないけど。
でも、今までになかったものが家にやってきて、
今までの生活の中に無かった新しいことができるようになると面白い。
プレステなんかと一緒。
なんか わくわくするよね。

それで、夜 外に出てシュートを打ってみたり。
今の時期は夜風がけっこう冷たくて、そんな中で体を動かすのは気持ちがよかった。
人の目も気にならない。

右手の薬指を突き指したけど、
懐かしさを感じる痛みだった。
あぁ、突き指ってこんなんだったわ・・・って。
小学生の頃なんて、しょっちゅうだったな。

運動なんて呼べるほど動いてもいないけど、
シュートを打ってるだけでもけっこう疲れてしまった。
運動不足を実感しました。

1時間弱のシュート練。
こういう時間、いいかもしれない。

Saturday, November 4, 2006

stigma

今、私を苦しめているものは何だろう。

なんだか、文が素直に書けない。
それは自分の頭の悪さや愚かさが露見することが怖いからだ。

何を言っても、浅はかだ。
深く切り込んだ思考ができない。
それが悔しく、もどかしく、抜け出せなくて苦しい。

そう、今も、正解は何かと探している。
ここに何を、どのように書けばよいか。

書く度に、自分は惨めになるのだ。

書くことによって、自分は証明される。
何を考え、どのような言葉で表現したのか。

でもその結果はいつも不満足なものばかりで、
何を表現できなかったのかを凝視しようとすると頭が壊れそうになる。
最近は、吐き気まで感じる。
それでも知りたくて仕方ない。
知らなければ、落ち着かない。苛立つ。気持ちが悪い。

いやだ、惨めでたまらない。
それでもここから抜け出すためには書くしかない。
抜け出せるかどうかはわからない。

抜け出そうとするのをやめたことがある。
考えることを極力控え、楽にしていようと努めたことがあった。
楽に、笑顔でいようとした。
欺瞞。
単なる自己欺瞞に過ぎないんだよ、あんなことは。
いつも何かから目を逸らし、自分の作り笑顔に疲れていたような気がする。
笑いたくないときに、顔の筋肉が笑顔を作っていることを感知すると、
たまらなくいやな気分になっていた。虫唾が走る。
だからそんな不快感からも目を逸らすよう努めた。

考えることを自分に許したとき、
漏斗の穴にスーッと引き込まれていくような、
周りの世界に完全に身を委ね、深い海の底に吸い込まれていくような、
初めての気持ち良さを感じたのを覚えている。

私はきっと、
考えることに縛られて生きるしかないのだ。
苦しみながらも、どこかでそれを望んでさえいる。

この苦しみから逃れることはできない。
だからといって、その世界の中で上へと這い上がっていくこととは別問題だ。
この世界から抜け出せないなら、この世界で這い上がることだ。
そして、自分はそれを最も望んでいる。
私は這い上がっていくことだけを考えている。

上へと登っていきたいんだ。
もう一つ上の段階へ。

Thursday, November 2, 2006

省み

潔く自分の非を認めることは、開き直ることと混同されたり勘違いされたりしがちだ。
意識的に「勘違い」しようとしている人間も多いんだろう。
意識的であるにせよないにせよ、潔さと開き直りを勘違いする人間は、 往々にして精神的に弱い。
或いは、「偉い人」。地位や名誉のある人ってこと。
これは偏見だろうか。
自分の手にあるものを手放さないでいるために、彼らは必死で開き直っているように見える。
或いは、惨めさを少しでも誤魔化すために。

「潔く非を認める」とは、自分の罪を見つめて受け入れると共に、 罪を犯した人間として自分を見なすこと、または、人からそう見なされることによる惨めさや恥を受け止めることでもある。
そしてそれは、惨めな自分をどうにか誤魔化し、人の前でも自分の前でも面子を保とうとする姿勢を持つものにはできない。

罪を認めればいいというものではない。
重要なのは、態度だ。

誰かに見せる態度ではない。
自分に向き合う態度なんだろう。

弱い人間が一番恐れているのは、自分なのだろうと思う。
自分の失敗や惨めさや恥を認めるのは、非常に勇気のいることで、
それを認めてしまえば逃げようのない罪悪感や劣等感、羞恥心に苛まれることになるだろうから。
できれば目を逸らしたい、揉み消したいと誰もが思うだろう。
必要なのは、そんな弱い自分に立ち向かうことができる勇気だ。

だから、弱い人間は開き直ることしかできないんだ。

謝罪した後、真っ先に何を思ったかでわかると思う。
「よし、ちゃんと謝罪したぞ」って満足感が湧いてきたなら、それは単なる自己満足のための開き直りだ。
こう書いてしまえば、開き直る人間は、自分が満足感を感じた事実さえも誤魔化してしまうのだろうけど。
だから直すのは難しいんだろう。